コラム
喜んでくれるかな?
激動の時代の建物
最近、明治時代にはまっています。
以前から好きだったのですが、明治時代の建築家 妻木頼黄の小説を読んでからさらに興味がわくようになりました。
それまで武士だったり、何者でもなかった人たちが時代に求められて海外の建築を学び日本の伝統や風土、
その土地の特徴をとらえながら町をつくり、産業をつくっていったのです。
そんな明治時代の建物を見ることがライフワーク化してきました。
今、変革の時と言われたりもしますが明治時代の変化からしたら動じている場合ではないと思ってしまいます。
明治時代の建物を見ていると、日本が近代国家ですよと海外にアピールするためのものがあったり、
産業をしっかりとやっていくための堅牢なものがあったりします。
私が妻木頼黄を好きなのは、堅牢なものも使う人のためを思って細やかに設計することで、永く使いやすいものになっているところ。
そして子弟や取引先を大切にするところ。
今残された文献でしか知ることができないので私の思い込みも入ってますが。
変革の時代も大切なことを忘れず、地に足を付けていきたいと思います。
はじまりの想い
こんにちは。
今日は最強寒波と言われる日ですが、上棟をしています。
朝は雪が降っていましたが、お客さんの晴れパワーで寒いながらも青空がみえる気持ちのいい現場です。
ご縁をいただき、この日が迎えられたこと本当にありがたい気持ちでいっぱいです。
家を建てる時には建てようと思ってから実際、形になるまでいろいろな乗り越えるべき壁があります。
その壁を乗り越えることができるのは、建てようと思ったはじまりの想いがあるからだと私は思っています。
今日は、はじまりの想い。私の祖父と父親の場合です。
私の祖父は大工修行を終え独立するか、という時に近くに中古の物件がでたと親方から聞き購入を決めます。
借家では床に畳はなく板の上にむしろを敷いて暮らしていたと聞いています。
新しい場所は茅葺屋根の建物。元は事業をされていた方の家で贅沢なしつらえの便器などもあったそうです。昭和16年のことです。
引っ越し当時、私の父親はまだ赤ちゃん。ひとつ上の叔母は歩いてもとの借家に帰ってしまうこともあったそうです。
太平洋戦争を経て、父親は中学を卒業して祖父の元で家業の大工修行をします。兄弟も多く、少しでも早く働くことが家族にとって重要な時代でした。
昭和34年大きな台風に襲われます。伊勢湾台風です。
真夜中、家がみしみしと音をたて雨水が入ってきます。家が倒れるかもしれないと家族で竹やぶにあった小屋に避難したそうです。
当時父親は19歳。まだ小さい兄弟もいて大変怖い思いをしたそうです。
そして昭和40年。家を建てることに。借入や、材料の工面など話は尽きませんが、家族の待望の新しい家が建ちます。
それが今も敷地内にある建物です。
そのときのはじまりの想い。
家族が安心して暮らせる家を建てた祖父や父。
60年を経てリノベーション工事をしながら思うことがあります。
材料にお金をかけることはできなかったけれど、手間は惜しまずに工夫して建ててくれたのだと。
安心して暮らせるとは
建物の形であり
素材の使い方であり
丈夫さが長持ちするひと手間であり。
残してくれた建物から教えられることがたくさんあります。
それははじまりの想いがあったから。
家を考える時、はじまりの想いはひとそれぞれです。
その想いのひとつづつに意味があります。
それを忘れず、家づくりをすることが大切なのではないでしょうか。
そしてそんな想いの近くにいられる家づくりの会社でありたいと考えます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
お気軽に
年が明けて、監督から「〇〇さんが新年の挨拶に来られるそうです。」と連絡がありました。
その方は2022年にご自宅が完成したOBさん。
なにかお困りごとでも?と思った私は、都合のつく日をお知らせして当日を迎えました。
当日は、お住まいの暮らし方や最近の出来事など家とは関係ないことも含めお話をさせていただき、
最近働きだした息子のことまで相談したりした後、「そういえば、なにかご相談などありますか?」と
いう私に「いえ、何も。」とのことでした。
お土産までいただいてしまい、帰られた後「なんだか申し訳ないわぁ」と監督につぶやくと、
「社長のこと、第二のお母さんと言われていたので大丈夫ですよ。きっと。」
私の方が感謝をお伝えしないといけないのに・・・なんともありがたいことでした。
「今度はらっぱのお店ができたら、冬は薪ストーブで暖かい粕汁などつくりますので、
私たちの会社にお越しの際は、お気軽に手ぶらでいらしてくださいね。」とお伝えすると、
お客さんはにっこりと「それはいいですね。」と帰って行かれたのでした。
遺言状
作家の向田邦子さんがエッセイを書くきっかけになったのはご自身が患った乳がんでした。
「あまり長く生きられないような気がして、誰に宛てるともつかない呑気な遺言状のつもりで、これを書きました」※と当時の心情を語られています。
今日の続きがまた明日もあると、誰しもが思っています。
でも何かのきっかけでそうではないと知った時、「はてどうしよう?」となるのでしょう。
向田さんが頑固な父親や子供のころのご自身の姿を描くことは”精神安定剤”のような役目があったようです。もし同じ立場ならば、どんな選択肢があるのでしょう。
やりたかったこと、思いもよらないこと、どんな選択肢があるか考えてみる価値はあるのではないでしょうか。
向田さんは、エッセイを書き始めて数年後飛行機事故で他界されています。
遺言状はいつ書き始めても早すぎることはないと思うのでした。
※眠る杯『娘の詫び状』講談社 から引用